初めてネルソンを知る事になったのは直接会ったではなく,彼のイヌを通してだった.
スーパーの入り口にあるポールに手綱をかけられていて,その子はおとなしく座っていた.
そのイヌはグレーの毛をしたシュナイザー犬とボクサー犬を掛け合わせたような雑種で,背が高く,ちょっとしたおじいちゃんのようなもじゃもじゃヒゲに似た毛を生やしていた.
どうして僕がそのイヌが気になっていたかというと,中学の頃から飼っていた犬によく似ていたからだ.
それから僕が168番通りに向かうと,たまにそのイヌを見かけるようになった.
彼はいつもおとなしい姿だったし,その彼を連れているのは,そのイヌとよく似た髪の色をした,アジア系と思われる細身の男だった.
日本だったら気安く話しかけるものの,ここはアメリカだし,飼い主がどんな人かよくわからないから,そのイヌを撫でたい衝動にかられていたが,しばらく飼い主と彼を遠くから眺めることにしていた.
そうこうして半年が過ぎたある冬の日に,僕は大学のジムへ寮から歩いて行くと,そのイヌと飼い主がゆったりと目の前を横切った.
僕はその頃すっかり実験がうまくいっていなくて,そのイヌを撫でたい衝動の駆られ,思わずその飼い主に話しかけた.
その飼い主はネルソンという名前で,オスと思っていたそのイヌは実は女の子だった.
僕が日本で飼っていた犬によく似ているんです,と話すとネルソンは陽気に笑って,それはいいねぇと相づちをうった.
ネルソンはこのあたりに長く住んでいるらしく,大学の周りで住んでいる若者がほぼ毎日のように朝から晩まで365日働いていることをよく知っていた.
「君はあそこの大学寮に住んでいるのかい?君たちはいつも働いている.僕はときどき,このあたりにいる学生と話しをするのだけれど,いつも忙しそうにしている.たまにはゆっくりするといい.」
僕がこれから大学のジムに行って泳ぐんですよ,と言うと,それはいいことだ,とくっくっと笑った.
「この子はちょっとした哲学家なんだ.誰にとっても優しいし,彼女といるといろいろな人が僕に話しかけてくれる.この子に触れると,いろいろな悩みが和らぐみたいなんだ.そして,彼女は撫でられるのを受け入れる.この子と一緒にいられて,僕はとても幸せなんだよ」
このことがあってから,僕はときどき,ネルソンに挨拶をするようになった.急いでいる朝の出勤の時間.土曜日の昼に研究室に行かなければいけないとき.夕方遅くの散歩の時間.ネルソンはいつもゆったり歩いていて,連れている彼女はそれにあわせ,リードもないのにゆっくりと歩いた.まるで二人がちょっと年季の入った夫婦の連れ合いのように見えて,いつ見ても微笑ましい光景だった.
あるとき,ネルソンに挨拶して立ち話したときに,こんなことを訊かれた.
「君はいま自分がしている仕事が好きかい?」
働いている時間も長いし,うまくいかないことも多いけれど,今している仕事には満足しているよ,と僕が答えると,ネルソンはこう言った.
「そいつはいい.この世の中で,今自分がしている仕事が本当に好きだって言える人は10%もいないだろう.そう考えると,君はとてもラッキーなんだね」
ポスドクは長時間労働で,報われることも多くない.ほとんどの実験は失敗だ.
それでも,その仕事が好きだと言えるのは,ある意味で誇りでもある.
このことを気づかせてくれたネルソンもまた,哲学人のようだ.
にこやかに笑うネルソンは手を振って別れを僕に告げ,ワシントンハイツの方に向けてゆっくりと歩き出した.
それを追うようにして,やはりゆったりと彼女は,リードもないのにネルソンの後を追うのだった.
[今週のポスドクフレーズ]
“You guys work 24 hours, 7 days a week!”
君たちは24時間,365日働いているよね!
09/08/2013
© Masa N.